私のパワハラ経験
どんな会社でもパワハラはあるだろう。
かく言う私も会社でパワハラにあってきた。
パワハラに大きいも小さいもないのだろうが、
大きなパワハラが2回、小さいパワハラが2回あったと
すぐに思い出せる。
パワハラを受けている間は、生きた心地がしない。
どこに居ても、何をしていても、心の片隅にこびりつく。
せめて、会社にいる時だけ嫌な気分になるのなら分かるが、家に居ても嫌な気分が続いてしまうから厄介だ。
生き地獄という言葉がピッタリ。
私の時代は、パワハラはやられる方にも問題があるという論理観。
腐った勝者の論理。
こんなものがまかり通っていた。
まあ、個人が時代の流れに抗えるはずもなく、パワハラに耐える日々を送り、配置転換にて解放される。
散々な日々でした。
後輩がパワハラを受けていた。
先日久しぶりに後輩にあった。
元気がないようなので話を聞くと上司とうまくいっていないとのこと。
後輩は、けして仕事ができるというタイプではないが、人当たりが良く、人に対し強くでることもしない優しいタイプの人間だ。
事の発端は、後輩が運転手として上司を送迎中、若いあんちゃんに追突されたことらしい。
一方的に追突され、後輩に非はないそうだが、上司にネチネチと怒られ、その後も難癖をつけられたと。
なんとまあ理不尽な話です。
後輩からしか話を聞いていないため、若干フェアではないが、後輩が心を病みかけている事実から、その上司は健全な判断ができていないと思える。
ホッとする私
後輩からパワハラを受けているとの話を聞いて、本心、私は「ホッとする私」がいると気づいた。
もっとさらけ出すならば、人の不幸に安心を覚える面が私にはある。
私はこの気持ちを否定しない。
この気持ちを深掘りしていくと、「私だけじゃなかった」という安心感につながる。
パワハラを受けた過去は、私に「私は出来損ない」と認識させる。
たが、
後輩もパワハラを受けているという事実を聞き、「あー1人じゃないんだ」との安堵感が、私の心に広がるのを実感する。
良い悪いの話ではない。
これが人間の心理なんだと実感した。
逆襲する後輩
後輩の話は続く。
後輩はネチネチと怒られ、1回難癖をつけられた時点で動悸がしたので病院に行って、適応障害の診断書をもらってきたという。
私の口からでた言葉は、「たくましいな」。
後輩は言う。たぶん、今後ずーと難癖を付けられるんだろうなと思ったんですよ。
で、思ったとおり、難癖をつけられたので直属の上司に、あの難癖上司と関わりたくないと相談し、今は難癖上司と直に話すことはなくなりましたと。
心から後輩の対応の早さに感服した。
私にはできないなと思った。
私なら、我慢が美徳であり、逃げは負けと信じている私の心の一部が警報を鳴らすだろう。
ここを耐えれば乗り越えられる!歯向かったら報復されると。
時代は変わった。
逃げの責任
昨今、学校でのイジメに対し、キツイのならば無理に学校に行かなくて良いという論調を目にする。
優しい時代だ。
根底には、若者の自殺防止があるようだ。
確かに若者の自殺はダメだ!
いくらでもやり直しが効くだろうとも思ってしまう。
でも一方では、誰しもが思っているだろうが、
学校に行かないことで一番苦労するのは逃げた本人になる事実。
実際、私の知人の子は高校を中退したことで、本来ならばしなくてすむ苦労をしている。
人間は十人十色。
どの子が逃げるべきで、どの子が我慢するべきなんて線は引けない。
すると子供本人に決めさせることになる。
子供は楽な方を選ぶ。逃げる。
そして、苦労する。
そんなふうに、私は感じる。
耐え忍ぶ後輩
あと4ヶ月。
うまくいけば配置転換により難癖上司と離れられると後輩は言う。
だが、あと4ヶ月。
ながいな〜と後輩は嘆く。
組織の上下関係は、あくまで組織優先。
男尊女卑にならえば
組織が尊く、個は卑しいとなる。
個が豊かになるための組織が個をすり潰していく矛盾。
社会規模で考えれば、
社会を豊かにするためには1組織がすり潰されるのは仕方ない論理。
得心してしまうところがある。
仕方ないのか。
だが、だからといって潰されていいものか!
私は後輩に「もがいていこう!」と的外れなエールを送った。
言葉の責任
なぜ、話し合いが機能しないのか。
これだけ言葉が発達しているのになぜイジメやパワハラは起こるのか。
原因は、やはり言葉にあるらしい。
同じ言葉でも文化、宗教、個性により受け取り手の意味は変わる。
人間の多様性が、言葉のズレを生み、守るべきものに相違が生じる。。
言葉によるズレはやがて対立へ発展する。
なんとも皮肉なことだ。
だが、私たち人間は言葉でしか伝えられない事が数多ある。
対立が言葉からならば、理解も言葉からしかない。
この言葉の重要性をかんがみると、
現代社会は、言葉を軽く用い過ぎではないかと思う。
言葉の乱用。
テレビをつけると芸人さんが言葉で空間を埋めていく。
言葉のプロの芸人さんだからこそできることであり、
一般人が簡単にマネできるものではない。
一般人がマネしていいのは、せいぜい間の取り方くらいだろう。
言葉は恐いものだ。
その一言は確かに人を救えるかもしれないが、人を傷つける刃になることを忘れるべきではない。
だからこそ、
言葉の恐さを私たちは見直す段階にきているのかもしれない。
